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〜所沢航空記念公園30周年企画展〜
所沢航空記念公園が日本初の飛行場だったころ
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平成20(2008)年9月19日(金)
〜10月1日(水) |
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明治の末頃から大正・昭和にかけて、所沢は織物と飛行場のまちでした。
今回は、飛行場のまちとしての歴史をふり返りました。
○陸軍所沢飛行場と陸軍航空学校
所沢に、日本初の飛行場として、陸軍所沢飛行場が開設されたのは明治44年(1911年)4月1日のことです。陸軍所沢飛行場は、幅50m、長さ400mの滑走路と格納庫、気象観測所を備えていました。同年4月5日午前5時37分には、フランス製複葉機アンリ・ファイルマンを操縦する徳川大尉が、所沢飛行場で高さ10m、距離80mを1分20秒で飛行し、初飛行に成功しました。
大正8年(1919年)には、将校及び下士官の教育を目的として陸軍航空学校が所沢に開港しました。同年1月から15ヶ月間、フランスからフォール大佐団長以下46名が来日し、航空技術を指導しました。大正13年(1924年)には所沢陸軍飛行学校に改称され、その後も、陸軍航空技術学校、陸軍航空整備学校と分離・独立がなされ、所沢陸軍飛行学校は廃止されました(昭和12年/1937年)。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転、昭和18年には、同様の陸軍航空整備学校が岐阜に設置されたことから、所沢陸軍航空整備学校と改称されました。
○米軍基地
終戦後、昭和20年(1945年)9月初旬から11月下旬にかけて、機関銃を付けたジープを先頭に6輪のトラックに乗った米兵が、旧所沢陸軍航空整備学校に進駐してきました。昭和30年代には、東南アジア地区の米軍給与兵器の修理再生をする下請けとしてビクターオート(株)が基地内に設置され、従業員2,000人が自動車修理などに従事していました。
昭和32年には、在日米軍所沢兵器廠が基地内に設けられ、後に、在日米軍兵站センターと改称されました。日本人が所沢基地で最も多く就業していたのは昭和36年(1961年))5月頃で、6,800人に達し、まちの商店街も活気がありました。
ベトナム戦争のエスカレートに伴い昭和41年(昭和16年)には、基地内に504医療廠が設置され、後年には基地内に504医療廠が設置され、後に在日米軍医療廠と改称され、医療薬品の補給を行っていました。
その後、基地の整理縮小で人員整理が始まり、昭和45年(1970年)12月に完全に閉鎖され、従業員は一人もいなくなりました。これよりもさきに米軍第14通信隊所沢通信所が設置されていましたが、その後、所沢の米軍基地は通信基地として存続することになりました。
○基地の返還と航空記念公園
昭和34年(1959年)から基地の返還要求をし、昭和42年(1967年)には市民4,000人が参加して「基地全面返還市民大行進」が行われました。米軍基地は数次にわたって返還がなされてており、その一部は、航空記念公園(昭和62年開設)として、市民の憩いの場となっています。
第1次返還 昭和46年6月30日 約6割の返還
第2次返還 昭和53年
第3次返還 昭和57年 返還分は約7割に |
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所沢飛行場の歴史を現在までふり返りました
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所沢を飛んだ飛行機や飛行船(写真)
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飛行機(模型)/中央の複葉機がアンリ・ファルマン |
在日米陸軍兵器廠にあった車両(模型) |
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